著: 小泉 周
JST 情報管理 56(1), 059-062, doi: 10.1241/johokanri.56.59 (http://dx.doi.org/10.1241/johokanri.56.59)
私自身が子供のころ,漫画や子供向け科学雑誌の中には,「夢」があふれていた。ネコ型ロボット・ドラえもんは,“四次元”ポケットから未来の科学技術の結集である秘密道具を取り出し,のび太を救ってくれた。子供向け科学雑誌では,21世紀になると街の様子も一変,さまざまな科学技術で,市民の暮らしはより充実し,例えば,休日には月世界旅行を家族で楽しむなんてことまでも,現実のものとして語られていた。市民は科学技術の発展に(公害などの負の面もあったが),多くの期待をよせ,また,科学技術もその期待に応えていた。そういう科学技術と社会の間の相思相愛が,科学技術の発展の後ろ盾となっていた。
ところが,戦後,高度成長時代も終わり,バブルもはじけたころから,その関係もぎくしゃくしたものになってきた。科学技術の負の面が大きくクローズアップされるようになり,私が子供のころに描かれていた「科学技術によるバラ色の未来」は,1つずつ非現実的なものとなっていた。決定的なのは,3.11東日本大震災とそれに伴う原子力発電所の事故である。科学者と市民の感覚の大きなずれが浮き彫りになり,科学技術や科学者に対する信頼の危機に陥っている。科学者は,人それぞれ違うことを言い,どこに真実があるのかわからなくなった。しかも,科学者は時に嘘をいい,市民をまるめこもうとしてくる反社会的な存在となった。
そんな信頼の危機の中,科学者自身の意識も変わろうとしている。科学者も市民の一員であり,ただ研究室に閉じこもっているだけでなく,社会に目をむけ対話しなければならないことを少しずつ自覚している。内閣府からの通達もあり,科学者と市民との交流や対話は,ここ数年で大きく進んだ。実際,私の所属する自然科学研究機構の岡崎3研究所(生理学研究所,分子科学研究所,基礎生物学研究所)では,愛知県岡崎市教育委員会と連携して,市内の中学校全校(19校)で出前授業を行っている。こうした取り組みは,この5年以内で全国に急速に広がっている。
ただ,その一方で,市民との交流や対話をする中で,科学を“ちゃんと”市民に伝えることができるのか,そこに不安を感じる科学者も多い。また逆に市民からしてみても,普段はなかなか接することのない科学技術の言葉や考え方を,市民の立場から“ちゃんと”理解できるのか不安があり,科学技術と聞くだけで敬遠してしまい,食わず嫌いになっているところもあるのではないだろうか? 今回紹介する2冊の本は,市民の立場から,科学の目を養い,科学リテラシーを向上させることの意義と方法を説いているものだ。
市民の科学リテラシーの向上を目指して
市民目線で科学技術を考えるとき大切なことは,なにも「科学的知識」を知るだけが科学リテラシーの向上ではなく,「科学の考え方」そのものを同時に身に着ける必要があることだ。その際,まずは,ともかく「科学を疑うこと」。そう訴えるのは,各種メディアで科学コミュニケーターとして活躍されている内田麻理香さんの『科学との正しい付き合い方』。科学技術は絶対的な価値観ではなく,生活に密着した生活知でもあり,市民の目線で科学を疑うことから始めなければならないと説いている。
では,市民の立場で,科学的思考のプロセスをどのように身に着けていけばいいのか? 今回ご紹介する2つ目の本は,科学哲学者である戸田山和久さんの『「科学的思考」のレッスン-学校で教えてくれないサイエンス』。帯に「“科学アタマ”を速攻でつくる!」とあるように,科学者が科学を扱うときにどのように考えを積み上げていくのか,その科学的思考のプロセスも含めて,練習問題を解きながら,市民目線で体験し学んでいくスタイルが特徴的な本だ。
このように,この2冊の本は別々の立場から別々の視点で市民の科学リテラシーについて書かれているものだが,共通して,市民目線で「科学的知識」と「科学的思考」を学び,科学リテラシーを向上させなければならないと説いている。そして,その目的は,ただ,科学リテラシーを向上させるだけではなく,市民が科学リテラシーを十分に身に着けることで,それを武器にして,「科学をマニア(専門家)だけに任せてはならない」(内田麻理香さん),「そのリテラシーを使って,市民が科学・技術に関する社会的意思決定にちゃんと参画」しなければならない(戸田山和久さん),というように,市民のより積極的な科学技術の意思決定や未来像への参画と監視を訴えているのである。
科学者の“科学リテラシー”の問題?
私はこの2冊の本を読んでみて,別の視点から共通して感じたことがある。本の中では,市民の科学リテラシーをいかに向上させるか,その意義と方法が記されているのだが,むしろこの2冊の本が訴えたいことは,科学者自身も科学的思考などの“科学リテラシー”が欠如しており,そこが市民と科学者のぎくしゃくした関係の根本的な原因である,ということではないだろうか?
そう考えてみれば,この2冊の本に書かれていることは,科学者へのメッセージでもあると受け取ることができる。ここで,この2冊の本に書かれていた科学者にこそ知っておいてほしい科学リテラシーのポイントを2つ挙げてみたい。
ポイント1.理論/事実を二分法で考えてはいけない(『「科学的思考」のレッスン』より)
仮に,世に100%の真理や真実があるのであれば,人間の科学的営みは,その1つの側面を明らかにすることしかできない。理論をたて,仮説をつくり,その仮説を証明する実験や検証を行うことで,科学者は「事実」と呼ばれるものを積み上げていき,真理や真実に迫ろうとする。ただその事実も,実は真理や真実に一歩近づく努力でしかなく,100%ピュアな真理や真実を得ることは到底難しいことだ。つまり,科学者の得る事実の裏には必ず理論背景があり,理論と事実を分けて考えることはできない。それにも関わらず,科学者によっては,自分の理論や仮説に基づいた制約条件のもとで得た結果でしかない事実を,あたかも「100%真実・真理」であるかのごとく勘違いしていることがある。事実と思われるものも条件や環境,背景や文脈によってその意味や価値は変わり得る。そうした事実の“脆弱さ”は,科学の持つ不確実性を反映している。このことを勘違いし,科学者がある事実について「科学的に証明されている」とか「科学の裏付けがある」などと一方的に主張することは,結局は,市民の科学者への信頼を失う1つの要因になっているのではないだろうか?
ポイント2.科学を権威化・教条化してはならない(『科学との正しい付き合い方』より)
ポイント1にも通じるものがあるが,科学者が自分の得た事実をあたかも「真実・真理」と誤解したまま,科学の不確実性を忘れてその事実を伝えようとするとき,科学者は,科学をあたかも絶対真理のごとく「神聖不可侵」のものとして祭り上げてしまう。そして,例えば偉大な発見をした科学者はその道の絶対的な権威となり,その口から発せられた言葉は,すべて「真理・真実」であると勘違いされてしまう。たとえそれがその科学者の専門分野外のことで,ちんぷんかんぷんなことであろうといえどもだ。そうして権威化・教条化された科学は,特殊な科学者ソサエティーに属するマニア(専門家)だけの特別なものとなり,市民が科学に対して発言する機会を排除してしまう。
つまり,本来であれば科学技術はなにも特別のものではなく,生活知として市民の生活の中に入り込んでいるものであり,市民にとって身近なものであるはずなのだが,科学技術を社会から切り離して特別扱いしようとしているのは,むしろ科学者自身ではないだろうか? 権威化・教条化された科学は,悪用されれば,疑似科学の母体となる。つまり,そもそも疑似科学を生み出す温床は,こうした研究者ソサエティーの持つ排他的な性質とその閉鎖性ではないかとも考えられるのだ。
科学者による科学コミュニケーションのススメ
私自身は,科学技術振興機構に2012年4月より設置された科学コミュニケーションセンター(毛利衛センター長・北原和夫研究主監)のフェローとして,科学者と市民の間の意識のずれや課題について調査研究を行っている。この2冊の本を読んで,あらためて,市民と科学者の間のぎくしゃくした関係の背景には,市民の科学リテラシーの欠如だけでなく,科学者自身の“科学リテラシー”のなさも,大きく関わっているように思えてきた。科学者は,自ら作り出した“象牙の塔”から外に飛び出し,丁寧で慎重な科学的思考をもって市民と対話していく謙虚さを持たなければならないように感じられた。そういう意味で,この2冊の本は,科学者にこそぜひ読んでほしいと思えるものである。